錦は着てても心はボロ
自分で着る服はすべて自分で仕立て上げ、
町で一番最初にパーマネントをあて、
ヒールを履いて歩けば、派手だと後ろ指を指される。
そんな娘時代をおくっていた祖母は、御歳93歳。(たぶん)
60歳くらいの時趣味で始めた木彫りと水彩画は、いわば達人の域。
おばあちゃん子だった私は、この祖母の美的感覚により自然英才教育された。
祖母が言ってた。
「色が派手なのがおしゃれなんじゃない。色はシックにして、形が変わっているのが粋なんだよ」
幼い頃から何度も何度も耳にしてきた言葉で、今でこそこの教えの本当の意味が段々分かってきたつもりだが、お洒落おばばからしたら私なんてまだまだちんちくりんだ。おばばかっこよすぎる。越えらんねっす。
まあそんな祖母をきちんと見習い、高校生の時には学年で一番最初にパーマをかけたし、服を作る専門学校を3年通って、その後は当たり前のようにアパレル関係の仕事についた(売る方)
着飾るのが好きだ。
買い物も好き。
綺麗なものを見るのも好きだし、囲まれたいと思う。
お洒落をするとワクワク高揚するのは今も昔も万国共通だと信じているし、
そのお手伝いをするのも大好き。
というか、お洒落じゃない・美しくないのは悪だとすら思う。
、、ハズだった。
実は最近そんなスタイルにちょっと違和感を感じている。
クローゼットでその日着る服を選びながら、ふと思うのだ。
「私の体は一つしかないのに、なんでこんなに服がたくさんあるんだろう」
かつてその服を買った時は、いつ着ようかどんなアイテムと合わせようかと、ワクワク胸を躍らせていたはずだ。
なのに今、この鬱蒼と服にまみれたクローゼットを見てもそのワクワクが思い出せない。むしろ疲れる。今日なに着ようっ☆が、今日なに着よう,,,,とプチストレスになって蓄積される。
服は悪くない。服を買うというのは、未来への希望を買うのと一緒だ。自分の可能性を買うのと一緒。過去の自分はその可能性を信じて購入に至ったのに、今の自分はそれのせいでストレスを溜めている。
捨てたりもするが、服を捨てるのは過去の自分の希望や可能性を捨てているみたいでかなりエネルギーを使う。でも捨てたらまた買う。そんでまた疲れる。負のループ。いつまで続くのかと考えたらゾッとした。
着飾れば着飾るほど、買えば買うほど、自分は空っぽな気がしてきた。何のためにこんなに服を集めたのだろう。
悪いのは服じゃない。私だ。
先日実家に帰った際、自分が若い頃の写真を嬉しそうに私に見せながら祖母が言った。
「人と同じは嫌だったから、みんなが着物を着ている中でも洋服を着てたんだよ」
祖母はきっと自分の服の可能性を信じていただろうし、自らのスタイルとして確立させる自信があったんだろう。嬉しそうに写真を眺めるその笑顔からは、当時の好奇心が伺える。
「あんたも自分に合った服を選んでいるし、わたしの若い頃を見ているようで嬉しい」
ごめんおばば。
たぶん私、英才教育、履き違えちゃったのかも。
だっておばばみたいに自分のことも服のことも大事にできてないもん。
服をたくさん持って武装するように片っ端から着飾るなんて、そんなこと教えられてないのに。
合った服、全然選べてないよ。綺麗な服着ても、中身はすっからかんなんだ。
出かける前に鏡を見る。
果たして私は、きちんとこの服を着こなせているだろうか。
写真の中の祖母のように、身も心も錦を羽織れる時は来るのだろうか。
自信がないのを埋めるように、ネックレスを一つ足して玄関を出る。
秋の風が冷たく当たる。そろそろアウターの季節だ。